亡霊の島の遺言
遺産を手にするために罪を隠すか、真実を暴くか、相続人は迫られる。
Beginning
霧絶島(きりたえじま)へ渡る船は、一日にただ一便きりだった。冴子(さえこ)を乗せた古い焼玉発動機の漁船が、鉛色の潮路をよろめきながら押し進むあいだ、海と空の境目はついに一度も現れなかった。前方に横たわるはずの島影は、名の由来そのままに、幾重もの霧の帳(とばり)に呑まれて輪郭を失っている。船縁を打つ波の飛沫が頬を刺すたび、彼女は襟を立て、二十年ぶりに嗅ぐこの海の匂い——塩と、腐れた海藻と、どこか甘い泥の匂い——が、幼い記憶の底からゆっくりと立ちのぼってくるのを感じていた。
「近づかんほうがええ島じゃと、昔から言われとりましたがな」
舵を握る老いた船頭が、櫓のきしむような声で、独り言のようにそう漏らした。冴子が振り向くと、男は霧の奥を睨んだまま、二度と口を開かなかった。返事を求めていたわけではないらしい。ただ、渡し賃を受け取ったことへの、ささやかな贖罪のように、その一言だけを海へ投げたのだ。