鏡像迷宮の哲学者
真の自分を探し続けるか、すべての像を受け入れるか、哲学者は迫られる。
Beginning
目を覚ました、という言い方がそもそも正しいのかどうか、私には確信が持てなかった。眠っていたという記憶がどこにも見当たらない以上、覚醒という概念もまた、根を失った蔓のように宙で揺れているだけなのだ。ただひとつ疑いようのないのは、私がいま、数えきれぬほどの鏡に四方を囲まれた場所に立っている、というその一点である。
鏡は床から天井まで隙間なく連なり、互いを映し、映されたものをまた映し返して、視線の届くかぎり奥へ奥へと廊下を延ばしていた。前を見れば私がいる。振り返っても私がいる。斜めに首を傾ければ、傾けた私が幾万も同じ角度で首を傾け、その運動が波紋のように遠ざかりながら、しだいに霞んで灰色の点に融けていく。ここには壁というものがない。あるいは、すべてが壁なのだと言うべきかもしれない。境界がそのまま無限へと開いている――そういう種類の閉じ込められ方があるのだと、私はこのとき初めて知った。
哲学を生業としてきた私にとって、鏡はけっして目新しい主題ではなかった。自己意識とは、他者の視線を経由して初めて成立する反照ではないか。人は鏡を覗くことで、内側からは決して見えぬはずの自分の顔を、外部の一枚の平面として引き受ける。その引き受けの瞬間に、「見る私」と「見られる私」との、あの決して埋まらぬ裂け目が生まれる。若い頃の私は、講壇の上でそんな話を得意げに語ったものだ。だが、言葉として弄んでいた命題が、いまや逃げ場のない現実として私の全身を取り囲んでいる。理論はいつでも安全な距離を必要とする。距離が消えたとき、それはもはや理論ではなく、症状になる。