言葉の標本室
言語を記録のために搾取するか、話者の尊厳を守るか、研究者は迫られる。
Beginning
連絡船が汐見島の桟橋に横づけしたのは、潮が引きはじめる時刻だった。私は肩から古い録音機の鞄を提げ、もう片方の手に、金具の錆びた採集箱を持っていた。採集箱――そう、私はいつからか、自分の仕事道具一式をそう呼ぶようになっていた。蝶を捕らえる者が捕虫網と展翅板を携えるように、私は消えゆく言語を捕らえるための道具を携えている。マイク、譜面台ほどの大きさの反射板、音素の一覧を刷った硬い札の束、そして何より、標本室に整然とならぶ抽斗の記憶を。
私の勤める言語資料館の地下には、標本室がある。壁一面に浅い抽斗がならび、抽斗のひとつひとつに、この世からほとんど消えた言葉が眠っている。蠟管に刻まれた声、磁気テープに閉じこめられた祈り、色褪せた札に音標文字で留められた挨拶。抽斗の背には番号が振られ、私はその番号で言葉を呼ぶことに慣れていた。標本四十七番。標本百三番。針で胸を刺し貫かれ、翅をひろげたまま二度と飛ばぬ蝶のように、それらの言葉は美しく、そして完璧に、死んでいた。
私がこの島へ来たのは、まだ抽斗に入っていないひとつの言語のためだった。島の者が「シラ」と呼んだ言葉。話者はもう、ただ一人しか残っていない。トヨという名の、八十八歳になる老女。彼女が息を引き取れば、シラという言語はこの地上から永遠に消える。学界はそれを「言語の死」と呼ぶ。私はその死に立ち会い、死ぬ前にできるだけ多くを採取するために、はるばる海を渡ってきたのだった。