見えない隣人
隣人に会いに行くか、そっとしておくか、女性は迷う。
Beginning
その部屋を選んだのは、家賃が相場より二割も安かったからだ。駅から歩いて七分、築十五年、南向きの角部屋。内見のとき、不動産屋の若い男はやけに早口で、契約書のいちばん下の欄を指でとんとんと叩きながら「事故物件ではありませんので、そこはご安心ください」と、こちらが訊いてもいないのに言った。私は笑って、ペンを受け取った。三十四歳、離婚したばかりの女に、贅沢を言う余地はない。安いのは、ありがたいことだった。
引っ越しの日、五〇二号室の前に段ボールを積み上げていると、廊下の空気がやけに静かなことに気づいた。この時間なら、どこかの部屋からテレビの音や、子どもの声や、料理の匂いが漏れてきてもよさそうなのに、五階には物音ひとつなかった。まるで、住んでいるのが私ひとりのような。けれど郵便受けを見れば、どの部屋にも名前の紙が差してあり、玄関の前には傘立てや、しおれかけた鉢植えや、雨に濡れた新聞が置かれていた。人はいる。ただ、気配だけがない。
隣の五〇三号室のことに気づいたのは、その晩だった。段ボールに囲まれて缶ビールを開けたとき、壁のむこうから、かすかな音がした。水を流す音でも、足音でもない。何かを、ゆっくりと、規則正しく擦るような音。板の上を、濡れた布で拭いているような。それが十分ほど続いて、ふっと止んだ。私は壁に耳を当てた。心臓の音のほかは、何も聞こえなかった。